今日は、癌になってからの正直な思いを語る

 
 今日は、タイトルにある通り、心の中にあるモヤモヤを、ただただ書いてゆきます。
読後感、間違いなく、暗くなります。
人のこんな話、聞きたくないよ。
と、いう方は、どうぞ、そっとページを閉じてください。

 癌になってから、自分は変わってしまいました。
どう気持ちを切り替えても、やっぱり、生きる気力を削がれます。
頭の上は、いつも、ゆううつの雲におおわれています。
癌になる前と、あとでは、別人のよう。
もう、以前の私には戻れない、と思います。

癌が発覚する以前の私

 不満や不安は人並みにあり、グチらない日はないくらい。
ときには、何でこんなに不幸なの、と泣きたくなる日もありました。
歳とともに、疲れやすくなっていって、忙しい日々のルーティンが、いつまで続くのだろうと、ウンザリすることもありました。
定年も近くなって、この財力で、いつまで続くかわからない老後を、生き抜くことができるのか、不安もありました。
それでも、いつまで続くかわからない仮の永遠は、まっさらな明るい明日を毎日、私に届けてくれました。
いつからでも、いくらでも、リカバリーすることができる、新しく始めることもできる、そんな無敵感がありました。
「元気があれば、何でもできる」とは、よく言ったものですね。
本当に、そう思いました。

癌が発覚したあとの私

 35歳頃、右胸に良性腫瘍ができて、摘出して以来、右胸は、私をずっと、イヤな思いに引きずりこむ、やっかいな存在でした。
人間ドックで毎度ひっかかり、再検査が続き、いつしか人間ドックの乳房健診を受けるのはやめました。
その後は、時々、サボりつつも、1~2年おきに病院で、直接、検診を受けました。
それは、人間ドックでマンモをやって、再検査で、病院でまたマンモをやるのは、面倒だし、体に悪いように思ったからです。

結果が「大丈夫」と「癌」との間には、ものすごい隔たりがあって、結果を待つ間は、いつもウツウツと過ごしていました。
セーフなら、心がスキップして、帰り道の景色の色も鮮やかに見えるほどでした。
裏を返せば、それくらい、隔たりの向こうへ行くのはイヤでした。

でも、とうとう癌になって、私の根拠のない無敵感は消え、ポジティブ・マインドも癌に食いつぶされました。
自分は、癌に支配され、自己コントロールする力を奪われました。

無力感や孤独感はどこから来るのか 何がこんなに不安にさせるのか

 癌になってみなければ、わからない世界がありました。

日本人の2人に1人  
女性の9人に1人
早期発見なら、生存率は高い
今や癌は、治る病気です

癌にまつわるこれらは、全体像を語るもので、癌になった自分にとっては、もはや、心に響く言葉ではありません。
癌にならなければわからない世界の住人になった私は、元いた世界の住人に、自分の病気のことを話すたびに、傷つき、孤独になりました。

リンパ節に転移していると、全身転移の恐れがありますけど、スズメさん、腋のリンパ、どうでした?
岡江さんの死亡がショックで、コロナ気を付けてね
順調に回復していますか?
神様からの休息ですよ

等々。
決して、これらの言葉を、私にかけてくれた人が、悪いのではないのです。
それくらい、癌になった人と、そうでない人との間には、隔たりがあるのだと思います。

 病気にかかったのなら、「治った」と言ってみたいのですが、この病気は、「治った」と、なかなか言えません。
今、こうしているときも、もしかしたら、増えているかもしれないし、どこかへ根付いてしまったかもしれません。
進歩したこの世の中にあって、自分の体の中の癌細胞がゼロになったのか、それとも、どこかにいて、まだ活動を続けているのか、はっきり知ることができないのが、もどかしく、また、不安です。

 死は、他人ごとではなくて、自分ごとになりました。
いつ、再告知を受けるのか、怖くてたまりません。
自分の体は、自分で管理できていたはずなのに…
それが、できなくなった無力感を感じています。

癌になって、自分ごととして調べて、治療の道筋がわかりました。
ある治療が効かなくなったら、別の治療へ。
それを繰り返して、手玉がなくなったら、治療はおしまいです。
その前に、自分の体力が尽きてしまうかもしれません。
永遠に続きそうな老後の心配をしていた自分は、どこへやら…
死を、具体的にイメージするようになりました。

両親のこと

 私の母は11年前に、父は6年前に、すでに他界しました。
母は、胆管癌が全身に転移した段階で、初めて病院で診察を受け、入院後、2週間で亡くなりました。
癌センターの、胆・肝・膵専門の医師は「今までたくさんの患者を診てきたが、この増え方は2番目か3番目の速さだ」と、言っていました。
入院して1週間は、意識があり、その後の1週間は、痛み止めで眠り続けていました。

母は昔から、感情を表に出さない人で、何を考えているのか、全くわからない人でした。
そんな母ですが、亡くなる10日ほど前、初めて感情を表に出した出来事がありました。
それは、家族同席の病状説明のときのこと。
医師が、言葉を選びながら説明するも、その内容の厳しさに、母は「あっ」と声を出して、車いすの背もたれに崩れるように、寄りかかってしまいました。
私は、母の深い悲しみと絶望を、垣間見たように感じました。

 父は、自宅で足が立たなくなるまでいて、その段階で病院へ入院しました。
原発不明の転移した肝臓癌と診断されました。
治療らしい治療は無く、約2カ月の入院生活後、亡くなりました。
父の口ぐせは「考えても、どうにもならんもんは、考えてもしかたない」でした。

2人とも、自分が癌であることを知っていたのか、知らなかったのか。
治療する考えはなかったのか、したくてもしなかったのか。
2人とも、秘密主義だったので、今となっては、わかりません。

 私の実家は、広義の8050問題を抱えた家でした。
精神疾患を持つ弟は、ひきこもっていて、両親がずっと世話をしてきました。
もしかしたら、両親は、自分のために病院へ行って治療をする、という考えを捨てていたのではないか、と思うところもあります。

癌で死を迎えるということ

 死を前にした両親の生きざまをみて、教えられたことがあります。
上手く表現できないのですが、死因としての癌は、悪くないんじゃないかということです。
自分の死期がおおよそ予想できることで、自分なりに準備をする猶予がもらえ、そして、日常生活を続けようと思えば、わりとギリギリまでやれそうだからです。

母は「ありがとう」や「ごめんなさい」を言わない人でした。
少なくとも、私は、聞いた記憶がありません。
でも、入院中に1度だけ、ありがとう、と言ってくれました。

父は、遺言を書き、家の中を片づけ、遺影の写真を準備していました。
入院中には、私に、弟と墓を頼むと。
頼まれたくなかったことだけれど、父の最期の頼みとあっては、しっかりと引き受けるしかありませんでした。
短い期間ではありましたが、真剣に向き合えた時間は、残される私にとっても、心の準備ができました。

さいごに

 今日も、不安や孤独感は、寄せては返す波のようです。
ゆううつの雲の晴れ間に、体もちゃんと動けて、ご飯も美味しく食べられること、ありがたく思い、つかの間、心安らぐときもあります。

「考えても、どうにもならないことは、考えてもしかたない」と割り切れればいいのだけれど、私には、そんな度胸はありません。

日々、さまざまな感情のうちに、揺らいでいます。
しばらく、この状態が続きそうです。
これも自分、と受け入れて、生きていこうと思います。

2021.10.21

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